守護の天使との遭遇(2)

清め

天使は、依然としてとても深刻な表情で戻ってくると、私の生涯において、神をとても悲しませたいくつかの行為をとがめました。そして、神の与えられた恵みを私がみ前に突き返し、全然感謝してこなかったことも。

これを手始めに、まだゆるしの秘跡で告白していなかった罪を、まるで画面に映し出すように次々と思い出させ、見せ始めました。その出来事によってどんなに神が悲しまれたかを。しかし、一番厳しくとがめられたのは、神の恵みを拒んだことでした。恵みを拒んで無駄にすることは、神に大きく背くことだと天使は言います。天使は、私の罪が神の目にどう映るかを見せてくれました。私たちが見るようにではなく、神の目にどう見えるかを。そのあまりの醜悪さに、私は自分を嫌悪して激しく泣きました。

後で分かったことですが、このような状態に置かれたのは、私がしんに悔い改めるための神からの一つの惠みだったのです。まるで、私の霊魂の内面が裏返しにされたかのようにさらされ、私の罪がはっきりと示されました。

アダムとエバが罪を犯した後に、神が光の中に近づいて来て自分たちの前に立たれた時、彼らがどう感じたのかが突然分かりました。私の霊魂は覆いを取られ、露わにされたのです。それはむきだしで、忌まわしく、醜悪でした。私は泣きじゃくりながら、天使にこう言うのが精一杯でした。私は普通の死にはふさわしくない、これほどまでに全く邪悪な私は、死んで細切れにされてハイエナの餌にされるしかないと。

この清めが一週間近く続いたに違いありません。それはちょうど、霊魂の内面を洗い清める火のようなもので、本当につらい経験でした。

創造主が教えられた「主の祈り」

私をすっかり打ちのめしたこの経験の後、永遠の御父がご自身を現されました。天使を見た時のように、霊魂の目で見るようには見えませんが、そのお方だと分かり、お声を聞きました。自分の反応がこのようなものだったことを覚えています。
「ああ、神様だわ、これで私たちは助けていただける!」
そこで神はこう尋ねられました。
「本当に私があなたたちを助けられると信じるか?」
私は「はい!」と答えて、それから窓の近くに行き、こう言ったのを覚えています。
「見てください! 世界がどうなってしまったかを!」
世界の有様をお見せしたかったのですが、神はそれには何もお答えにならず、「主の祈り」を祈るように求められました。私が「主の祈り」を祈ると、私の側にいて聞いておられ、祈りが終わると、私の唱え方は速すぎて良くないとおっしゃいます。そこでもう一度全部繰り返しました、今度はもっとゆっくりとです。ところが、神はまたもや良くないと言われます。体を動かしているからだと。もう一度唱えなさいと言われるので、また祈りましたが、まだ満足ではないと言われます。何度か繰り返しましたが、その度に良くないと言われるのです。

神様は、私がこれまで唱えてこなかった「主の祈り」を、一日で全部唱えさせるおつもりなのかしら、と思い始めました! 朝に始めたのに、もう夜になっています。すると突然、主は満足されて、私の発する一語一語に対して喜ばれ、「よし!」と言われます。何が起きたのか、一つのたとえを使って説明してみましょう。

外国に住んでいて、今まで会ったことのない親戚がある日訪ねてきたとします。出会ったばかりの時はよそよそしく感じ、もしかするとかしこまった態度を取るかもしれません。けれど、その日一日が過ぎていくにつれて、最初の時よりも打ち解けてきて、その日の終わりには、以前にはなかった共感が心に芽生えていることに気づくでしょう。

私の神との初めての出会いは、このようなものでした。神に向かって「主の祈り」を祈るとき、最初は距離があったのです。ところが、主がまる一日私と一緒にいてくださったことが、私を変えました。なぜなら、この祈りを主に向かって唱えながら、私は主の現存を喜び、口にする言葉が意味を持ち始めたからなのです。

主は本当に父親らしく、とても優しくて温かいお方でした。そのお声の調子は、私をとても楽な気持ちにさせ、どういうわけかその日、私は「はい、主よ」と答えるかわりに、「はい、パパ!」と答えてしまったのです。その後、「パパ」と言ってしまったことを謝ったのですが、神はこの言葉を宝石のように受け取ったと言われました。とても喜んでおられたようでした。このようにして、神は感情を持っておられ、この祈りを心を込めて唱えてほしかったのだということがようやく分かったのです。

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