守護の天使との遭遇(3)

サタンの攻撃

この話に入る前に、マリー・ウジェーヌ神父がその著書『私は教会の娘』で、悪魔の攻撃について述べていることを引用したいと思います。

「人間と神的なもの、神の清さと人間の卑いやしさとの出遇いの場とは、悪魔にとってこれはあらん限りの力で介入せずにはおれない、どれほど重大なかけであろうか。いずれ暗夜にいたれば霊魂は清められ、かれの攻撃も届かず、恐るべきものとなる。そこで悪魔は、霊魂がまだ不完全で、執着に感じやすい時こそとり入る狙い目なのだ。十字架の聖ヨハネはこう書き記している。『邪悪な霊はここで非常な狡猾さを表わし、感覚から霊にうつる通路に立ちはだかる』(生ける炎、第二の歌)」

「こういった暗やみの状態におかれた霊魂は混乱に陥り、その経験が不慣れで苦しみも極度に大きいことから、偽りと闇の魔王にとって特に介入しやすい好機となっている」

「感覚が穏やかで潜心の中にあることを示す外面上のある印によって、悪魔はその霊魂が神的なものと通じていることを容易に察する。神秘家でもある教会博士はこう述べている──『善天使を通して与えられる恵みをその敵が知ることを、たいてい神は許しておられる。その理由は、正義によって許される限り、悪魔がそういう恵みに反対することができるためであり、それによって悪魔が、ヨブに対してと同じように、霊魂を征服する機会が自分には与えられていなかったと言わせないためでもある』(『霊魂の暗夜』)」

「こうした事実が霊魂の暗夜の問題点としてあり、その間の夜をつくりだしている。この夜とは一つの出遇い、または愛すべき知恵である方によってお膳立てされた真剣な戦いである。神がその霊魂を完全に支配されるのは、神的なものに相応しくない状態を取り除き、その霊魂に力を及ぼす悪の力をすべて征服されたときである」(生ける炎、第二の歌)」

これを読めば、神がなぜサタンの介入をお許しになるのかがよく分かります。

天の御父と素晴らしい一日を過ごした直後、地獄の憤激が爆発しました! サタンは猛烈な攻撃をしかけてきました。私が最初に聞いたサタンの声は、声というよりも野獣のうなり声のようでした。そのうなり声は「ゴー!」と言っているように聞こえましたが、この「行け Go」はおそらく、天使や神と交わるのはやめろということを意味すると思われました。

すっかり気が動転した私は、天使を探して見回しましたが、すべての空間をサタンが奪い取ってしまったようで、激しい怒りとともに、あらゆる侮辱的な名前で私を呼び始めました。サタンが私の霊魂の中にそのような苦痛と恐怖を作り出したため、もし神が私のためにご計画をお持ちでなかったら、死んでいたかも知れません。あれほどの猛烈な恐怖を感じたことはそれまでありませんでした。

立ち去るように命じたのですが、それはサタンの怒りを増すだけです。まるで狂人のような激しさでした。サタンは逆上していきどおり、発狂した人のようにうなり、とても耳障りな声で「ああ? さっさと手を退け、このあま、退きやがれ、さもないと地獄の火が容赦しねえぞ!」と言いました。私は「イヤよ!」と答えました。「イヤ」とは、神の現存からも天使からも決して退くつもりはないという意味です。するとサタンは、「お前は呪われている」と言い返し、あらゆる汚い名前で私を呼ぶのです。

悪魔が霊魂の中に吹き込むことのできるこの恐怖を説明するのは困難です。自分は正気だと理性では分かっていても、コントロールできないのです。この苦痛は波のように押し寄せ、サタンは自分だけでは不足だとばかりに、私を攻撃するために手下を送ってきます。攻撃されると、何か恐ろしいものが私の中に増大するのですが、外部から来る恐怖とは違うのです。それは追い払うことのできない感情でした。

可哀相な私の天使は、私も狂ってしまうかと思われたこの恐ろしい時、一言「祈りなさい!」と言うことしかできません。私はこの状態から助け出してくれるように祈り、天使に懇願しました。これが永遠に続くようにも思われたからです。

←戻る                次へ→